2008年一学期講義 科目名 学部「哲学講義」大学院「現代哲学講義」    入江幸男
講義題目「アプリオリな知識と共有知」

 
第二回講義 (2008年5月13日)

 
■決断主義は、約束主義に行き着く(再説)
(1)<我々が決断するのは、その必要性のあるときである。そして、決断が必要であるときには、それは常に不可避である。我々は能動的な主体性というような能力を持っているから決断するのではなくて、決断が不可避であるから、決断したことになってしまうのである。決断したことになってしまうということを受け入れることは、決断することと同じことである。>
ここでの、問題は「決断が不可避であるという認識がどのようにして生じるか」である。これは次の二つの場合に分けられる。
①他者に出会ったとき
 ②それ以外のとき
 
①他者に出会ったとき、私がどのように振る舞ったとしても、それをある意図の表明として他者が理解することを、私が理解している、と他者が理解していることを、私が理解している、・・・という状況が不可避に発生する。この状況を作り出すのは、共有知である。
(これについては、以下の拙論で論じた。
「メタコミュニケーションのパラドクス(1)」、『大阪樟蔭女子大学論集』第30号、19933月所収
「メタコミュニケーションのパラドクス(2)」、『大阪樟蔭女子大学論集』第31号、19943月所収、
「問答の意味論と基礎付け問題」、『大阪大学文学部紀要』第37号、19973月所収
「発話伝達の不可避性と問答」、『大阪大学文学部紀要』第43号、20033月所収  )
 
②私が坂道を登っているときに、上から大きな岩が転がってきたとしよう。私は、右に逃げるか左に逃げるかを決めなければならない。そうしないと死んでしまうかもしれないからだ。犬がそこにいれば、犬もどちらかに逃げるだろう。しかし、犬は決断しない。私も、そのとき何も考えないで、犬と同じように決断しないで、どちらかに逃げるのかもしれない。私がTVを見ていて、緊急地震予報が流れたとしよう。私は、どこに逃げるか、決定しなければならない。
このようなケースでは、自分の置かれている状況を認識したために、選択が不可避になっている。ここでの状況認識と「死にたくない」という意図の矛盾の認識、あるいは端的に「問題状況の認識」によって、問が立てられ、その問の答えとして決断が行なわれる。この問題状況の認識によって、選択の不可避性が認識され、決断がおこなわれる。
この問題状況の認識が可能になるためには、後に述べる言語の理解が必要であるが、認識の内容に関しては、自己意識と時間意識なども必要である。そして、この自己意識や時間意識は、他者との関係の中で生まれる。これらが、一旦形成されたのちにも、その存続のためには、この他者との関係を必要とする。
自己意識や時間意識を生み出す他者との関係とは、共有知である。」
「個人の知は、共有知からの分離によって成立し、成立した後にも存続のために共有知を必要とする。」
しかし、究極的に妥当な知を妥当させる決断の場合には、自己意識や時間意識は不要であるかもしれない。では、その決断は、他者なしに成立するのだろうか。 
 
テーゼ:「決断主義は維持できず、約束主義に行き着く」
■証明1:言語の公共性にもとづく証明
「個人の決断によって、その個人にとっての究極的な知を正当化することは出来ない。なぜなら、決断は、決断によって妥当させる命題の理解を前提するが、命題の理解は、公共的な言語を前提するからである。言語は公共的なものであり、他者への伝達可能性を前提している。したがって、個人の決断もまた、他者との関係の中で成立する。(言語が公共的なものとしてしか成立しないことは、別途証明が必要である。)
 
■証明2:反実在論からの証明(未完成)
次の反論が考えられるので、それを批判したい。
 
<個人が決断するのは、他者が決断を迫るのだ、ということを認めるとしよう。しかし、そのときには、必要なのは、他者が存在しているという事実ではなくて、他者が存在するかもしれない、という理解である。つまり、他者がいるかどうかわからなくても、他者がいるかもしれないときに、我々は決断を迫られるのだ。たとえば、宇宙から、何かの信号だと思われる電波が届いたとしよう。それに対して、我々は、それを無視するか、あるはそれに応えるとしたら、どのように応えるかの決断をする必要がある。他者がいなくてもよいのだ。他者がいる可能性があり、こちらの態度が、ある一定の意図を持っていると見なされてしまう可能性があると我々が理解することが重要なのである。
 この議論から、さらに次のことが帰結する。我々は他者に何かを語りかけるが、しかし他者が本当にそれを私が意図しているように理解しているかどうかは、原理的に確認不可能なのである。したがって、我々のコミュニケーションは、常に「死の跳躍」なのである。>
 
このような反論に対しては、次のように批判したい。この議論は、実在論ないし二値原理を前提している。それは次のような考えである。<私が語ることを、他者が理解しているか、いないかのどちらかである、他者は存在しているか、存在していないかのどちらかである。そのことを私は原理的に確認することが出来ないが、そのどちらかであることは、真である。>彼らの議論からすると、この二値原理が正しいこともまた、原理的に確認できないということになるだろう(これを厳密に論証する必要がある)。この時点で、次のような反論があるかもしれない。
 
<二値原理が正しいかどうかは、原理的にわからないとしよう。なぜなら、二値原理の正しさを、二値原理を用いて論証しても、循環論証にしかならないからであり、他方で、二値原理を前提しない立場(直観主義)は、整合的で矛盾しないからである。しかし、二値原理が正しい可能性は残っている。したがって、我々の反論が正しい可能性も残っている。>
 
この反論には、次のように応えよう。この反論は、<二値原理は正しいか、正しくないかのどちらかである。どちらが正しいのかは、我々には原理的にわからないが、二値原理が正しい可能性は残っている>という主張である。しかし、このような主張がすでに、二値原理を前提しているので、循環している。これに対しては、次のような反論があるかもしれない。
 
<我々の反論が循環していることは、論証として妥当しないということであるので、反論の内容が真である可能性は残る。>
 
この反論にどう応えたらよいのか、今のところよくわからない。この問題は、実在論vs反実在論の論争と結びついており、直観主義の理解にも関わるものである。この存在論の論争は、認識論だけでなく、コミュニケーションをどのように理解するか、という問題とも関係していることがわかる。二値原理やそれに基づく実在論が成り立たないことを論証できたならば、上記のようなコミュニケーション理解への批判となる。
 

§2 共有知とは何か?


1「共通知識」の定義
まず「共通知識」を定義しよう。次の二つが成立している場合を、pはaさんとbさんの「共通知識」であると言うことにする。
(1.1) aはpを知っている。
(1.2) bはpを知っている。
例えば、aもbも、p「ブータンの首都がティンプーである」を知っている場合である。この場合に、さらに、aがそのことを知っていることを、bが知っていることもあれば、知っていないこともある。どちらであっても(1.1)と(1.2)が成り立っていれば、「共通知識」であると呼ぶことにしよう。
 
 ここで更に次のことが成立しているとしよう。
(1.3)aは(1.1)と(1.2)を知っている。
(1.4)bは(1.1)と(1.2)を知っている。
このとき(1.1)と(1.2)がaとbの共通知識である。もちろん、ここにおいてpもまたaとbの共通知識である。上の(1.1)(1.4)を次のように書くことが出来る。
  (2.1)pはaとbの共通知識である。
  (2.2)(2.1)はaとbの共通知識である。
場合によってこのような操作をさらに繰り返すことが出来る場合もあるだろうが、しかし、共通知識であるときには、その繰り返しが常に可能であるとは限らない。
 
2、「共有知」の例示
 さてここで、もう一度最初から考えてみよう。aがbに「ブータンの首都はティンプーですか」と問い、bが「そうだよ」と答えたとき、aもbもp「ブータンの首都はティンプーである」を知っているだけではなく、pがaとbの共通知識であることも、aとbにとって自明である。さらに、この自明であることも、aとbにとって自明であるだろう。この場合には、必要に応じて何度でもこのような反復を行うことが出来るだろう。この場合に、pをaとbの「共有知」と呼ぶことにしたい。
このような共有知についての議論の先駆けの一つは、D.ルイスによるものである。彼が挙げている例は、次のようなものである。
 
「あなたと私が会い、私達は一緒に話をする。しかし、あなたは我々のビジネスが終わる前に去らなければならない。そこで、あなたは、あなたが明日同じ場所に戻ってくる、と言う。このようなケースを想像してみよう。明らかに、私はあなたが戻ってくることを期待するだろう。また、あなたは私が戻ってくることを期待するだろう。あなたが戻ってくることを私が期待することをあなたが期待することを私は期待するだろう。ひょっとすると、さらに一、二階高次の期待があるかもしれない。」(D. Lewis, Convention: A Philosophical Study, Harvard UP. 1969, p.52.
 
ここでは、「あなたが明日同じ場所に戻ってくると私が期待する」ということが、二人の人物の「共有知」になっている。
 
ルイスがここで「共有知」と呼んでいる知は、言語学、社会哲学、計算機理論など、いろいろな分野で「さまざまな名前(「相互知識」「相互に顕在的」「集団的志向性」)議論されている。
(1)シファーによる「相互知識」の定義(S. Schiffer, Meaning, Oxford UP, 1972
    これは、グライスの意味論への批判から導入されたものである。
(2)スペルベル&ウィルソンによる「相互に顕在的な想定」の定義(Sperber & Wilson, Relevance, Blackwell, 1986
これは、そのシファーの定義を批判して、作られたものである。
(3)J. R. Searle, The Construction of Social Reality, The Free Press. 1995, p. 24.
(4)辻井潤一編、石崎雅人、伝康晴著『言語と計算3談話と対話』東京大学出版会、2001
(5)トゥオメラによる「相互信念」の定義(R. Tuomela, The Philosophy of Social Practices. Cambridge UP. 2003
(6)中山康雄による「集団的志向性」の定義(中山康雄『共同性の現代哲学』勁草書房、2004年)
 
拙論
(1)「メタコミュニケーションのパラドクス(2)」、『大阪樟蔭女子大学論集』第31号、1994年、143-160頁。ここで、グライス、ストローソン、シファーの相互知識めぐる議論について、検討した。
(2)「相互知識はいかにして可能か」『アルケー』関西哲学会発行、2004年、54-67頁。ここでは、相互知識と共有知を区別し、共有知の存在を前提した上で、相互知識が成立する仕方についての分類整理、問題点の検討を行った。そこで論じた、共通知識と相互知識と共有知の区別は今も重要だと考えている。
(3)「知を共有するとはどういうことか」『メタフュシカ』大阪大学哲学講座発行、37号、pp.1-1520073
(4)‘Whats Going on, When We Share Knowledge?Nr., Published by Philosophy and History of Philosophy / Studies on Modern Thought and Culture Division of Studies on Cultural Forms, Graduate School of Letters, Osaka University, pp. , 2007/3
 
■共同主観性、相互主観性(intersubjectivity)との違い
日本では、1970、80年代に、現象学者を中心に、共同主観性や相互主観性が論じられたが、そこでの議論では、うえに述べた「共通知識」と「共有知」の区別が(少なくとも日本においては)なされていなかった。当時の他者論や相互主観性論は、日本では、永井均の<私>論の登場によって、消失してしまったような印象を受ける。
 
3、共有知or相互信念の三つの定義
 
7.2.1. 相互信念の定義
主体たちが知識・信念を共有するとはどういうことであろうか。3.3.2項で述べたように、ABがpという命題を相互に信じているといえるためには、「Aがpを信じている」「Bがpを信じている」「Aがpを信じてることをBが信じている」「Bがpを信じていることをAが信じている」「Aがpを信じていることをBが信じていることをAが信じている」といった入れ子になった信念が無限の深さにまでなりたっていなければならない。これをAB相互信念(mutual beliefあるいは共通基盤(common groundとよぶ。pがABの相互信念であることを、MBA B p で表すと、これは以下のように定義できる(3.3.2項参照)。
 
(7.2) 反復的(iterated)定義(Schiffer, 1972; Cohen & Levenson, 1990c
       MBABp =def BAp BABBp BABBBAp ∧ BABBBABBp ∧ ・・・・ 
         ∧ BBp ∧ BBBAp BBBABBp ∧ BBBABBBAp ∧ ・・・・
 
反復的定義は、相互信念の定義としては明らかに心理学的実在性を欠く、なぜなら、無限の入れ子になった信念を記憶するためには、無限の記憶容量を必要とするからである。そこで、クラークとマーシャル(Clark & Marshall, 1981)は、心理学的により妥当な相互信念の定義として以下のものをあげている。
 
(7.3) 反射的(reflexive)定義(Harman, 1977)
  
  MBABpは以下を満たすような命題qである。
     q=BAp∧BAq∧BBp∧BBq 」
 
(7.3)は、自己言及的な命題を用いた定義である。もしこのような自己言及的命題が心的表現可能であれば、(7.2)の場合とは異なり、記憶容量は有限ですむ(数学的には、このような自己言及を許容するモデル論が提案されている(Aczel, 1988; Barwise & Etchemendy, 1987))(辻井潤一編、石崎雅人、伝康晴著『言語と計算3談話と対話』東京大学出版会、2001pp.179-180
 
Aczel, P. (1988). Non-well-founded sets. Center for the Study of Language and Information. Lecture Notes No. 14.
Barwise, J.  & Etchemendy, J. (1987), The Liar: An essay on truth and circularity. Oxford UP.バーワイズ、エチェメンディ著『うそつき』金子洋之訳、産業図書。
 
(7.4) 共有基盤(shared basis)定義(Lewis, 1969; Clark, 1996
   MBABpが成り立つのは以下を満たす基盤bが存在するとき、かつ、そのときに限る。
    1. BAb BB
    2. bによってABに1が示される。
    3. bによってABにpが示される。
 
 (7.4)は、pの共有を基礎(basis)bの共有により正当化しようと言うものである。たとえば、3.3.2項の待ち合わせの例を思い出してみよう。そこでは、待ち合わせが成功するために、無限の深さの入れ子の信念が成立していなければならないことを述べた(相互信念の反復的定義)。しかし、もし健の電話か遥の電話のいずれかが通じていて、2人が直接、待ち合わせの時間の変更について話をしていたなら、その瞬間に相互信念は成立していたはずである。この場合も、健も遥もBB遥pやBBB遥pのような入れ子になった信念に思い悩む必要はない。ここでは「健と遥が待ち合わせ時間の変更について電話で話をする」という状況そのものが(7.4)の基礎bとして働き、命題p「待ち合わせ時間が変更になった」を共有に導くのである。
 クラークは、相互信念の定義として、共有基礎定義がもっとも基本的だとしている。他の二つは、いずれも共有基礎定義から導けるからである(相互信念の帰納スキーマ(Clark & Marshall, 1981)。実際、人間は、あるレベルの入れ子の信念が必要になったときにはじめて、その場でそれを導出しているように思える。)」(辻井潤一編、石崎雅人、伝康晴著『言語と計算3談話と対話』東京大学出版会、2001pp.180-181
 
5、ルイスの定義(共有基盤の定義)の検討
共有知を、ルイスは一般的に次のように定義する。
「<……が、集団Pにおける共有知である>のは、<次のような事態Aが成り立っている>ときそのときに限る。
(1)Pの全ての人が、Aが成り立っていると信じる理由をもつ。
(2)Aが、Pの全ての人に、Pの全ての人がAが成り立っていると信じる理由をもつことを示している。
(3)Aが、Pの全ての人に、……を示している。」(Ibid., p. 56.
 
Aはある人xに……を示している> iff <もしxAが成り立っていると信じる理由をもつのならば、そのためにxは……を信じる理由をもつ>(Cf. ibid., pp.52-53